プロパガンダについて考える

プロパガンダ 記事

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」と、とある有名な監督が名言を残しておりますが、「考えるのを止めたらそこで人生終了ですよ」と誰かが言ったとか言わないとか。

今回、『プロパガンダゲーム』というとてもおもしろい小説に出会えたので、プロパガンダについて少し自分の考えを整理してみました。

まず、プロパガンダの言葉の意味を調べると、下記のとおりとなります。

プロパガンダは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為のことである。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

さらには、世の中にあるあらゆる宣伝や広告、広報活動や政治活動がプロパガンダに含まれると説明があります。

つまり大なり小なりプロパガンダは常に日常に潜んでいることになります。そんな中から真に正しい情報を抽出し、さらにはその情報をもとに全体最適で正しい判断をすることはもはや神業に近いと言えるのではないでしょうか。

それが故に、思考停止で誰かの思想に便乗するのが楽な選択となってしまいます。思考のその先に思想があるのであって、思考なき思想は、単なる共感でしかありません。

しかしながら、その共感を創り出すことがこのプロパガンダの本質なのではないかと思うのです。つまりプロパガンダとは、ある事柄を正しいと理解させることではなく、正しいと感じさせることだと言えます。

ロジックではなく感情で賛同を得ること。もちろんロジカルな人には感情だけで賛同を得ることは難しいですが、世の大半は感情で動く人が圧倒的に多いわけです。裏を返すと、考えていない人、考えることを放棄した人が多いということです。

しかしながらこれはある種仕方のないこととも言えます、税制についてとか、戦争についてとか、知識や知見がないと判断できないことについて、勉強する暇や考える暇はないでしょう。日々の生活に追われ目先のことで精いっぱいですから。

このようにプロパガンダをする際は、ロジカルな人向けよりも、感情で動く層へアプローチすることが正攻法となります。理解させるのではなく、感じてもらうことに重きを置く。理解させるということは、考えてもらうことをを前提としているため、考えることを放棄している人に対しては誤ったアプローチ方法となってしまうのです。

さてここまで書いていて、プロパガンダされる側の身である自分として、考えて結論を出すことに何も意味がないのではと虚無感を覚えそうになります。しかしながら結果ではなく、考えることのその行為やプロセスに意味があるのだろうと思います。

自分で考えて出した結果と、思考停止で多数派に従っただけの結果では、その結果への責任に大きな違いがあります。自分で考えて出した結果がたとえ間違っていたとしても、自責思考でそれは経験値となり次の選択への糧となります。しなしながら自分で出していない場合は他責思考となり、常に人の人生を歩んでいることになってしまいます。自分の人生を歩むには、自分で結論を出すということが重要なのです。

「考えるをの止めたらそこで人生終了ですよ」

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